『あのひの あのひと』①
ニシテイでの“あの人とのあの時”を回想して残す半分架空のお話『あのひの あのひと』。
第1話は、緑色のワンピースのご婦人のお話。
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ニシテイのドアを開けたその方は、緑色に白い細かな模様が入ったワンピースに真っ赤な玉のネックレスを着けていた。
カウンターの席を選び、少しの間メニューを眺めてからコーヒーを注文された。
その方は、その日が初めての来店だった。
“コーヒーをお願いします。鍵を忘れちゃって。主人が帰ってくるまでここで待たせてね。”
甘くて落ち着いた声だった。
声は本当に不思議なものだと思う。
接客をしていると、お客様の声色に、つい、つられてしまうことがある。
そして、誰にでもその人にしか出せないその人の声というのがあるけれど、心豊かに年齢を重ねたからこそ出せる声というのもある気がしている。
甘くて落ち着いていて しっとりとした声に、こちらも 心の奥の方から 声が出てくる。まるで追いつかないけれど、少しでもこんな風に在りたいという気持ちが、私の声に乗っている。
4色あるコーヒーカップから、私は深い赤色のカップを選んで、カウンター越しにその方を時々ちらりと見ながらコーヒーを淹れた。
携帯電話やスマートフォンを覗き込む様子はなく、ただ外の景色を眺めている。
鍵を忘れてご主人を待っているだけには見えない、満たされた空気が漂っていた。
そう、だれか大切な友人に会った後や、良い映画や舞台を観た後の1人の時間は、こんな表情になるものだ。
きっと楽しいお出かけの帰りなのだ、と私は勝手に想像した。
それから1ヶ月もたたないうちに、その方は何度も来店してくださるようになった。
だいたい、いつも2人で。
お連れになる方がいつも明るい方ばかりで、時折聞こえる笑い声が心地よい。
いつだったか、数年ぶりに会ったというご友人とニシテイでランチをされた後のお会計のときの事。
“私が払うわ” “いや私が払うわ“ とレジの前で笑い合っていたら、ハンカチか何かがハンドバッグから落ちてしまったようだ。
それを拾うときにも2人は笑いあっていて、拍子にご友人が後ろに尻餅をついて倒れこんでしまった。
お2人は、目を合わせて より一層 楽しそうに笑い合っていた。
こんなことを若輩者の私が言うのは失礼かもしれないけれど、まるで女学生のようにキラキラしていて楽しそうだった。
学生時代からのつながりか、社会人の頃、それともお互いに結婚してからの付き合いか。
お2人がいつ出会ったかは分からないけれども、長い時間を置いても会えばこんな風に心底笑いあえる友人がいてくれたなら、辛い事や苦しい事も、きっと吹き飛ばしてくれるだろう。また頑張ろう、と思わせてくれるだろう。そう思った。
私も大切な友人といつか久しぶりに会った時、こんな風に笑い合える関係でいたい。そんな事を考えながらこちらもすごく幸せな気持ちにさせていただいた。
“ごめんなさい、騒がしくして。ご馳走さま。”
私達スタッフを笑顔にしてから、お2人は帰られた。弾むような後ろ姿が、忘れられない。
その日は確か、黒いTシャツに白いスカート、麦わらのハットに知人が作ったという可愛らしいバッグをお持ちになっていた。
あのひの あのひと。
憧れは増すばかり。
2019.8.26
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